「本当の読書の醍醐味とは?」
最近、見城徹の本「読書という荒野」を読み始めています。
その本の冒頭は、
「読書とは『何が書かれているか』ではなく『自分がどう感じたか』である」
という書き出しで始まります。
私はこの一文こそが読書の極意だと感じ、非常に共感しました。
昔の私は本を読むとなったら、内容を丸暗記するつもりで読んでいました。
つまりは読書を知識のインプットの手段として捉えていたからです。
速読に挑戦したこともあったし、複数の本を同時に読んでいた時期もあった。
そもそも僕が自発的に読書し始めたのは18歳の頃からで、
それまで読書する習慣がほとんどなかったんです。
学生時代の僕は理系人間で、国語が大の苦手。
読解問題の点数は平均点の3割くらいだったし、
「自分は人の気持ちが分からない人間なんだ」と内心諦めていた笑。
しかし、大学を中退してからは誰よりも勉強しなくてはいけないと決心しました。
既に一般企業に就職という安定の道が完全に無くなってしまったので、
「自力で稼げるようになるためにあらゆるスキルを身につけなくては」と焦りながら
片っ端から本を読み漁るようになったのです。
ノウハウ的なものを学びたくビジネス書を購入したり、
ちょっと背伸びして難しそうな本を買ったりしたこともありました。
読書の回数を重ねてゆくと、次第に気になっていくのが名作、名著の存在。
初めて三島由紀夫の「金閣寺」を読んだ時の衝撃は今でも忘れられません。
今まで自分が出会ったことのない世界観を目の当たりにして、
「見てはいけないものを見てしまった」という背徳感すら覚えてしまったのです。
こんな感じで最初は読むだけで満足していました。
自分の知らない世界の物事がズバズバと
自分の脳に差し込んでくる快感に日々興奮していました。
新しい本を読む度に自分の世界観が広がっていき、
自分の存在価値が高まったと錯覚してしまうほどの魔力が読書にはあった。
ところが、そんな錯覚はすぐに打ち砕かれてしまいます。
社会に出てからの私は、自分の力が全く世間に通用しないことを知ったのです。
自分の考えを言葉にして相手に伝えられない。
相手の感情を読み取って、適切な行動ができない。
相手の話の言葉だけを聞いて、内容を勝手に思い込んでしまう。
何をやっても全然ダメで誰にも相手にされない。
そう、私は本に書かれてる文字は目で追っていても、
その裏側にある本質を理解していなかったのだと気づいたのです。
本質を理解するには、自分の力で考えたり、
行動して確かめたりする手間が必要になってきます。
本の中で知った新しい物事と、自分の経験とを結びつけて共通項を見つけていく。
そして、新しい考え方を導いていき、日々自分の中に取り込んでいく。
これこそが自分の価値を高められる読書の本当の素晴らしさなのではないかと気づいたのです。
なのでこのブログを書き始めたのも、
そういった自分の新しい価値観をアウトプットする目的で書いてます。
稚拙な表現も多々出てくると思いますが、
その時は悪しからず見過ごしてやってください(笑)